なかなか聞いたことない響きなのではないでしょうか、「ませろ」。
ませる、言い換えると「大人びる」とも言えるでしょう。
年齢の割に大人の言動をとるさまのことを言います。
「ませる」はあまりポジディブに使用される印象はありませんよね。
マセガキ、なんて言葉もあるくらいです。
突然ですが、人はどのようにして人となっていくのでしょうか。
立位を保持した状態で歩く、言語でコミュニケーションをとる。
これらの行動はすべて“模倣”によって身につきます。
模倣は成長の基本、原点であると言えましょう。
話が少しつながってきたでしょうか。
ませるとは模倣の延長であり、まさに成長している最中なのです。
少し違ったり、ズレていることがあるかもしれませんが順調に前進している証に他なりません。
それを馬鹿にされたり、からかわれたりすることはマイナスな経験と言えるでしょう。
私は小5のころ、宅習帳に1次方程式の問題演習をやったことがあります。
当時普段から中学内容を勉強していたわけではなく、ふと目にして興味を持ちトライしました。
誰にも頼らなかったので当然難しく、何回も書いては消しての繰り返しです。
なんとか1問解けましたがもう時間的にもう余裕はなく、宅習ページのスペースを半分以上空けた状態で提出しました。
次の日の朝、担任の先生は私の宅習ページを開いてみんなに見せこう言いました。
「習ってないことをするな、しかもこんだけ空白があるなんて本末転倒だ」
わからなくはないのです。
一田舎の小学校で周りと違うことされる面倒だし、或いはませている様子が鼻についたのかもしれません。
私は学級で影響力があったので、みんなの前で晒すことにより釘を刺した意味もあると思います。
ただ、消した跡が大量にあるのをみれば決してサボっていたわけではないのはわかりますし、興味のまま挑戦したものを頭ごなしに否定するのは教師の理想像から離れた行動でしょう。
私は運良く、その熱意が消えることなく宅習帳以外の場で取り組むようになりました。
しかし人によっては敬遠するようになっていたのではないでしょうか。
ませていること自体を褒め、軌道修正が必要ならその都度やんわりサポートしてあげることが肝要と思います。
ませてもらうために親にできることは「模倣する機会を与える」こと。
それはすなわち子供とコミュニケーションをとり、大人の行動をたくさん見せ、良い模倣に対しては褒めることです。
大人の行動をたくさん見せる、のはひと苦労ですが腕の見せ所かと思います。
昔は15歳で成人でしたし、小中の間にませて大人に近づくことは当然のことです。
塾の生徒にもぜひ学習意欲・言動ともに立派なマセガキになってほしい。
そのためには、まず私が背中を見せないとですね😃