金閣寺を読んだ思い出
三島由紀夫が書いた小説です。
何に触発されたか忘れましたが、文豪の書いた本を読みたいと手に取った記憶があります。
(いわゆる「純文学」を読みたかった)
私は普段小説を読まないことと、小説に出てくる言葉がいちいち難しくて読むのにとても時間がかかりました。
わからない熟語はいちいち調べましたし、気に入った言い回しは頭の中で反芻しましたし、回りくどい言い回しにイライラしましたし10日くらいかけて読んだはずです。
読んでわかったこと
なんとか読み終わってわかったこととして、まず自分が知らない日本語がたくさんあるということです。
平素な言葉で会話を完結させることはできますが、語彙が豊かな人はやはり魅力を感じます。
普段いかに自分が少ない語彙で生活しているかにきづくことができました。
また、いわゆる難しい小説を難したらしめている理由の一つが「著者の情景の引き出しの多さ」にあると感じました。
正直自分なら1行で済ませるような文章を長々と書いており、感心する一方で「わかりづらいな」と思ったり。
明らかに私が色々不足しているせいだったのでしょうが。
あっさり燃えた
本を読むことは著者との対話に良く例えられます。
頭の切れる人と会話をするのは疲れますが、確かに難しい本を読む際の疲労もそれに近しいものを感じます。
他人の考えに考え抜いた思考の跡を追っていくわけですから、当然っちゃ当然です。
読書の本質はその思考に共感したり反論したり、あるいはその他感情を大きく動かされることで自分をアップデートすることにあると思っています。
アップデートできる機会はとても貴重ですので、その機会が溢れるようにある読書はとても贅沢。
私もこれを書きながら「本を読まないとな〜」と感じてはいますが義務っぽくなっている時点でなあ…。
実用書はよく読むんですけどね。
金閣寺を読む前からあらすじは知っていて、読んでいる途中から辟易していた自分はもう「金閣寺が燃える瞬間」だけを楽しみに読んでいました。
難しい文章で散々焦らされた私は「燃える瞬間はさぞかし贅沢な文章が用意されてるんだろうな」と楽しみにしていましたが、思ったよりあっさり燃えて終わったしまった記憶があります。
勝手に期待して勝手に失望した典型的パターンですね。
読む本のあらすじは知らない方がいい。