ていぎ【定義】definition ある概念内容・語義や処理手続をはっきりと定めること。それを述べたもの。 (Oxford languages より)
(やや長文です)
定義とは、ある概念に対する認識を共有するためのものです。
しばしば教科書、特に理系科目では定義が登場します。
定義は誤解がないようにしなければならないため、直感でわかりそうな箇所もしっかり名言します。
そして、その言い方は大抵の場合堅苦しかったり難しい熟語が並んでいます。
正直、学生のうちに定義から概念を会得するのは大変だと思います。
大学生でそんなことを言っていては授業に全くついていけなくなるのですが、高校までは甘えごとを言っても許されるのかなあと。
今でも覚えているのが私が中学生の頃に理科で出てきた電力、ワット[W]です。
確か「1秒あたりに1V電圧下で1Aが流れる時の電気エネルギー値が1Wである」的な説明が教科書にあり、授業でもそのように説明され板書した覚えがあります。
黒板上では赤で囲ってあるし重要なのは間違いないんでしょうが、何を言っているかさっぱり分かりませんでした。
「結局どういうことですか」と先生に聞いてもその定義以上の答えは返ってこず、
「(電圧)×(電流)で計算できる値なんですか」と聞いて「そうだよ」と言われたところで引き下がった記憶があります。
先日、生徒からも「今日の物理の授業60分何言っているかわからなかった」と質問を受けました。
その日の授業範囲を口頭で10分くらい、身近な例を交えつつ説明しましたがだいぶ理解してもらえたようです。
勉強に関するものに限った話ではないのですが、物事を理解するには様々な方向からの視点が必要です。
私は物事を理解する過程が「綺麗で大きな泥だんごを作っていく」過程に似ていると感じています。
最初定義をぶん投げられた段階ではまだ不恰好なデコボコした小さな岩です。
それを問題演習を通じてだとか、世の中でどのように使われているだとか、あるいは他の分野で見かけたりとか。
そういったさまざまな角度から理解することで、あらゆる方向からペタペタと泥を付け足していき大きく綺麗などろだんごを作っていきます。
どんなものでも理解に限界はありません。
深い理解をできていればできているほど大きな泥団子だし、正確な理解をできていれば綺麗な球の形をしています。
逆に、単一の視点でしか見ていないといびつな形をした泥団子になってしまうわけですね。
先ほどの私にしても生徒にしても、教科書で定義を説明された段階ではそれがあまりにも小さな石ころでした。
それを自分なりの質問や、他分野での比喩による説明を通じてある程度の団子にしたワケです。
独学である程度の団子を作る手っ取り早い方法はとにかく問題集で解いてみることなのですが、学生のみんなはわからないまま問題集に手をつけるのが怖いそうで。
もちろん、定義は何かを習得するのに必要不可欠です。
核となるものがなければ泥を付け足そうにも付け足せません。
先ほどの生徒が私の口頭説明で理解できたのも学校での60分があってのことです。
ただ「定義だけで理解できると思うなよ?」というだけの話になります。
「定義を出発として帰納と演繹を繰り返す」ことが理解の本質であると私は思っています。
この話はまたどこかでできればいいですね。(どこかでするといってしたことがまだない)
大学生にもなれば定義を足がかりとして自分で理解を深めていくくらいしても良いでしょうが、高校生でそれができる人は一握りでしょう。
でも、塾の生徒にはそれができるようになってほしいんですよね。
やっぱり私にとって塾のゴールとは
魚をあげるのではなく釣り方を教えて「塾が必要なくなった」といってもらえることです。
実際言われたら寂しいですけどね。