日記

一粒の後悔

それっぽいタイトルですが、それっぽいだけです。

私が高2の頃の話になります。

ラ・サールの行事で劇団を観に行くためのバスの中で私はチョコボールを食べていました。

ほぼお忍びで持っていきていたのでみんなから「一個ちょうだい」とせがまれます。

「一個ならいいか」と最初はあげていたのですが4、5人に渡しているうちに「俺の分がなくなる」と思い、その次のクラスメートのちょうだいを断りました。

その人が「そっか」と出した手を引っ込める動作が今も記憶に残っています。

客観的にみると別に大したことではない話です。

際限なくお菓子をあげていたら自分の分がなくなるから断る。

当たり前だし、自分は何も悪くないはず。

しかしたった一粒を渡さなかったことがどうしても心に残り、

「ああ、あそこでお菓子を渡さないことは自分の善に反する行為だったんだな」

と自分なりにモヤモヤと向き合いました。

一回試しに、意図的に自分の分を考慮せずにお菓子を共有した時、自分の「行為」と「道徳的な何か」がとても一致した感覚がありました。

それ以降、私にとって「お菓子はばら撒くもの」という認識です。

欲しいと言われれば何個でもあげるし、なんなら自分からあげにいく。

幹部候補生学校にいた時、ちょっと高いお菓子をうっかり同期の前で出してしまったことがあります。

「欲しい」という同期みんなにあげた結果、ほとんど残りませんでした。

同期の一人に「よくそんなポイポイあげられるね」と言われた時、何も考えずに

「自分一人よりみんなが幸せになった方が俺も幸せだからね」と返答。

私にとってはあのチョコボールの一件が下地にある当たり前の答えだったのですが、

「そんなクサい言葉よくさらっと出てくるな」と笑われてしまいました。

客観的に考えると、たしかに。

この件に限らず、「しなかった」ことによる道徳的な後悔はちょこちょこあります。

その度に「次はやるようにしよう」と自分と約束のようなことをするわけです。

他の人より親切だったり、なかなか普通はできない心遣いができる人っていますよね。

(私の「お菓子をあげる行為」がこれに当てはまるとは思っていません、念のため。)

そういう人っておそらく何かしら同様の後悔を過去に経験してるんじゃないかなーって思っています。

心遣いとはアクションです。

何か道徳的に思うことは誰でもできるというか人類皆備わっていると思いますが、実際にアクションを起こせるかはまた別の話。

行動するにはそれなりの背景があるはずだと考えています。

まあ、「君の行動には一体どんな後悔が隠れているんだい?」とかとてもじゃないですが聞けないので確認はできませんけどね。

チョコボールは美味しいのですが、パクパクいけちゃうがためにすぐなくなってしまうのが欠点。

-日記